長年、美少女ゲーム業界に関わって、多大な影響を与えてきたキーマンの足跡をたどる「PRESIDENT VOICE」。第三回目は株式会社ニトロプラス・小坂崇氣氏。会社設立から約17年、その間にリリースされたコンテンツのジャンル・メディアはとにかく多彩で、他メーカーとは一線を画す存在だ。アニメ展開はもちろん女性向ブランドやコンシューマ・ブラウザゲーム、近年は人形劇の制作も手掛けている。その独自性は小坂氏のバックボーンが強く反映されたものだった。
1999年 ニトロプラス設立
2000年 『Phantom PHANTOM OF     INFERNO』発売
2003年 『斬魔大聖デモンベイン』発売
2005年 ニトロプラス キラル設立
2008年 5pb.×ニトロプラス開始
2011年 「魔法少女まどか☆マギカ」放送
2015年 『刀剣乱舞-ONLINE-』
    サービス開始
2016年 『Thunderbolt Fantasy
    東離劍遊紀』放送

「主な経歴」で代表的なタイトル・展開についてまとめているが、他ブランドと重ならない独自性、多様な作品群はニトロプラスの大きな特徴であり、代表取締役・小坂氏の経歴やスタイルが強く反映されている。そこで今回のインタビューは小坂氏の創作活動の原点をたどるとこからスタートする。

同人誌からぬいぐるみまで

―――創作活動はいつ頃からでしょうか。

小坂(敬称略/以下同) 自分はもともと絵描きで、高校時代には漫研で同人誌を作っていました。初めてコミケに参加したとき「自分と同じようなオタクが集まる、面白い世界だな」と思ったのですが、自分たちの作った同人誌は売れないのに他にたくさん売れているサークルがある。それが悔しくて、どうやったら売れるのかを考えたんです。マーケティングを学んだんですね。自分たちがやりたいことをやりつつ、お客さんの視点を意識して改良した次の同人誌で部数は倍になりましたが、まだ全然足りない。漫研の同人誌としては正しかったのかもしれないのですが、モチーフが散漫だと売れないことに気がついたんです。売れている同人誌の内容を見ると、ターゲットを絞った特集かエロなんですよ。エロは苦手だったので、やるなら特集しかない。当時のコミケカタログにはランキングも載っていて、僕らは創作部門での1位を目指したんです。

―――ランキングとは面白いですね。

小坂 目標を設定し、次は方法論を考える。自分たちが燃えていて、かつ世間でも盛り上がっている作品は何か。それは放送が始まったばかりの『超時空要塞マクロス』(※1)だろうとバルキリー特集を作ったんです。漫研らしい部分は後半にまとめて前半はバルキリー一色、表紙もそれとわかる内容にしました。その結果、それまで数十部だったのが一気に200部近く売れた。さらに特集を追及した次の本では500部、その次は1000部という感じに積み上がって、部門売上1位をとったんですよ。

―――プロの編集者のようです。

感覚でやっていましたけどね。1位になった同人誌は話題になって、いくつか編プロからお話をいただき、アニメ雑誌を多数手掛ける編プロで働くようになりました。同時にスタジオぬえ(※2)に見てもらいたくて送ったところ「一度遊びにこないか」と連絡をもらって、メカニックデザイナーの宮武一貴さんと出会ったんです。そこには当時は珍しい海外映画や洋書が揃っていて、『ブレードランナー』を初めて観たのもここでした。通いながら色んな作品を見て勉強して、たまに絵を描いて添削してもらったりして、弟子入りみたいな感じですよね。楽しかったんですけど、宮武さんが僕をかまっていられる余裕がなくなるほど忙しくなってしまって。しょうがないのでメカデザイナーの道は一旦おいて、漫画家やイラストレーターの道を意識しつつ、編集の仕事に重点をおくようになりました。アニメだけでなく、特撮好きでスーツアクターをやっていたこともあったので、その経験を活かして特撮本の企画もやったし、小学館のてれびくんやコロコロコミック、学年誌もお手伝いました。ホットドックプレスや新潮とか、一般雑誌からエロ雑誌まで、なんでもやりましたよ。ただ、編集の仕事はどれも面白くて楽しかったのですが、何より自分はゼロからイチを作る、新しいものを生み出す仕事がしたかった。ある会社からプラモデルとの連動企画での漫画連載、さらにアニメ化も目指すタイトルのメカデザインのお話をいただいて、そこに転職したんです。

―――そういう企画って面白そうです。

アニメ化までは実現しませんでしたが漫画原作も担当して、プラモデル雑誌にデザインの連載ページもいただきました。一通りやれたなと満足したところでありがたかったのは、その会社が玩具やファミコンゲーム、雑貨やぬいぐるみまで、なんでもやる会社だったんですね。ゲーム開発を覚えたのもここでした。プラモデルで格好良いものはやりつくしたので、次は可愛いものをやろうと、ぬいぐるみのデザイナーになったんです。

(※1)…1982年放送のTVアニメ。変形するロボット・バルキリーは人気を集めた。
(※2)…アニメを中心に活動するスタジオ。宮武氏はここに所属するデザイナー。

著作権と版元になる重要性

初めて設立した会社はぬいぐるみのデザインから始めて、玩具や雑貨、カー用品など様々な企画やデザインの受託業務を中心にやっていた。

―――本当に色んな仕事をされていますね。

小坂 クレーンゲームが流行っていた時期ですね。僕がデザインしたぬいぐるみが大ヒットしたんです。その後、他会社からヘッドハンティングされ、その会社でも色々なヒット商品を生み出したのですが、契約の話にくい違いがあり退職することになってしまいました。まあ僕は前向きな性格もあって、気持ちを切り替えて今度は自分で会社を立ち上げたんです。それが会社経営の始まりですね、27歳のときです。

―――最初はぬいぐるみのデザイン会社だったんですね。

ぬいぐるみのデザインから始めて、玩具や雑貨、カー用品など様々な企画やデザインの受託業務を中心にやっていました。しばらくしてインターネットが普及し始めて自社HPを作ろうとしたら、自分たちのオリジナルコンテンツ作品としてアピール出来るものが少ないなあと強く感じました。やはりデザインだけではコンテンツ作品とは言えず、設定や物語があってこそ。また、漫画やゲームやアニメなどは表現手法であり、コンテンツの本質はやはりキャラクターや世界観、そして物語だと改めて意識しました。そして、受託業務ではなく、それを作るための原資となるコストやリスクを自分たちが背負うことで、自分たちが版元となれる。様々な経験からそれらを学び、これがニトロプラスの基礎になっていますね。良質なキャラクターや物語をどうやってクリエイティブするのか、そしてその原資は誰が背負っているのか。そこをちゃんと考えてできる会社を目指したんです。

―――人生で経験してきたことが積み重なってニトロプラスになったんですね。

学んできたことの集大成ですね。自分たちでオリジナルを作り、100%自分たちで出資する。そうすることで初めて自由度をもってビジネスができるんです。もちろん大きなコンテンツだと100%出資は難しいので、複数出資でありながらも権利関係が整理されている状態にしたい。そうすることが最終的にお客さんのためにもなる。お客さんが商品をほしがっても、権利争いで出せないとか珍しくないじゃないですか。

―――色んな人が絡むと作品内容がまとまらなくなる、とはお聞きする話です。

そうですね。あともう一つニトロプラスにこめた思いがあるんですけど、GAINAXの前身であるDAICON FILMは高校時代、憧れの的だったんですよ。庵野さんの帰ってきたウルトラマンやDAICONアニメ(※3)って、自主制作コンテンツの頂点でした。同時に彼らになりたくてしょうがなかったんです。でも当時の漫研ではGAINAXのような集団を作るのは難しかった。それがニトロプラスの一つ前の会社で集めたスタッフに素養のある人が複数いて、その筆頭が虚淵だったんですけど、もしかしたらGAINAXみたいな集団になれるかもしれない。彼らは学生時代のスタートで、自分はもう30歳過ぎだったけど追いつけるかもしれない、そう思って始めたのが1998年頃でした。

(※3)…庵野秀明氏らが学生時代に手掛けた作品。素人離れした内容で当時からマニア・業界関係者を中心に話題だった。

口コミでブレイク

いわゆる

―――学生時代のお話で「エロは苦手」と言っていましたが、なぜ美少女ゲームを?

最初はエロゲーをやろうとは考えていなかったんですよ。アニメを作りたかったのですがお金がかかる。ゲーム開発の経験はありましたが、当時のコンシューマ市場で勝てる道筋は見えなかった。そんな時、当時のスタッフの一人が「エロゲーが今熱いんです」と持ってきたのが『痕』(Leaf)で、やってみると面白くて。こういう作品を受け入れてくれる市場があるんだと知った訳です。そこで虚淵に企画を頼んで、話し合っている中で彼から生まれてきたアイディアが『Phantom』の原型になりました。

―――当時は自分もユーザーでしたが、見慣れない作風のゲームだなと思いました。

美少女ゲーム市場のことはまったく知らなかったんですよ。『痕』みたいなゲームばかりだと思っていて。後になって美少女ゲーム雑誌見て現実を知って驚きましたから。

―――なんか雰囲気が違うぞと。

販売のため流通会社を紹介してもらったのですが、最初に相談した会社では「これは売れませんよ」と。さらに「巨乳にしましょう」「女の子のバリエーションを増やしましょう」「エロCG枚数はこれくらいで」等言われたのですが、その時は「なにを言ってんだろう?」って聞いていました(笑)。

―――確かにそういう美少女ゲーム的セオリーってありますね(笑)。

次の流通にも同じようなこと言われて、そういう市場だと理解したんです。ただ、それでは僕たちの作りたいものとは違うものになってしまうと説得したところ「好きに作ってもいい」と言っていただいて、だったらここと組もうと。でも目標の売上本数に対して受注は10分の1程度。もう悔しくて、撤退かなと次の『吸血殲鬼ヴェドゴニア』を作りながら考えていたら、翌月も初動と同数の受注がきた。さらに翌月も続いて、その翌月には総合ゲーム雑誌から特集を組みたいというお話がきたんです。

―――美少女ゲーム雑誌ではなく?

 はい。6ページの特集を組んでいただけました。「『Phantom』が見せたアダルトゲームの新しい可能性」というページでは、ちょうど解体中だった神保町のビルの瓦礫を背景に、虚淵をはじめスタッフみんなでポーズをとった写真撮影なんかしたりして良い経験でした(笑)。

―――口コミからブレイクしたんですね。

当時は2ちゃんねるも黎明期で"良い口コミ"が多かったと思います。そしてヒット商品になったことで、美少女ゲームユーザー以外にも売りたいとコンシューマ版やアニメ展開、DVD-PGもかなり早い時期にリリースしていました。広告も自分たちで考えて、テレビCMやシネアドをやったり、マクドナルドのトレー広告を作ったり。業界初の展開を積極的にやっていきました。